今回は味噌の起源や歴史について徹底解説します。
私は大学時代に味噌の歴史や発酵蔵の経営について研究をしていました。
味噌は私たちの身近だけれども、学校で習うことはないので味噌の起源や歴史について知っている人はほとんどいないかもしれません。
今回は「ここまで解説してくれるのか!」と感心していただける味噌の歴史の完全版です。
最後まで読んでいただくと、味噌の歴史については人にも説明できるようになりますので、ぜひ読んでみてください!
【味噌の起源】中国から伝わってきた説と日本で生まれた説
味噌の起源に立ち返ると、実は2つの説があります。
- 古代中国の調味料「醤(しょう)」が飛鳥・奈良時代に中国から伝来してきた説
- 縄文時代の保存食として作られ食べられていた説
結論から言えば、どちらか一方が味噌の起源として正しいというわけではなく、古代中国の食文化と古代日本の食文化が融合して行ったことで味噌が生まれました。
①古代中国の調味料「醤(しょう)」が飛鳥・奈良時代に中国から伝来してきた説
日本は古代より、中国や朝鮮半島より政治的・文化的な影響を受けてきました。
味噌の伝来は仏教と関係があり、仏教が中国から日本に伝来してきたのは538年のことです。
当時の大和政権が仏教を推進したことで、中国の文化がより日本に入ってくるようになりました。
それに伴い中国や朝鮮半島の食文化が日本にも入ってきて、伝わってきた食材の中に古代中国の調味料「醤(しょう)」も含まれていました。
この「醤(しょう)」が味噌の前身とされています。
そもそも醤とはどんなものなのでしょうか?
「醤(しょう)」とはなにか?
醤は魚や鳥獣などの肉を叩いて、麹(こうじ)と塩を混ぜて100日間、甕の中に密閉させて作られた発酵調味料です。
醤を作るには専門的な知識や技術が必要だったので、宮廷では専門の部署が設けられていました。
醤のベースは大豆ではなく、動物性の食材がベースの「肉醤(ししびしお)」がメインでした。
大豆が中国に入ってきた背景
大豆が古代中国に入ってきたのは前漢(紀元前202年〜紀元前8年)の武帝(皇帝の名前)の時代です。 .
武帝は積極的な対外政策により、紀元前140年に張騫(ちょうけん)を中央アジアへと派遣します。 .
目的は隣国との同盟でしたがそれは果たされませんでしたが、中央アジアの文物や情報を多数、中国国内にもたらしました。 .
その中に大豆も含まれていたことが大豆が中国に入ってきた背景です。
②縄文時代の保存食として作られ食べられていた説
縄文時代や弥生時代には保存性のために大豆を塩漬にしたものが使われていました。
島国である日本列島では、土器に海水を煮詰めることで塩を得ていました。
塩は保存性を高めることかがあり、冷蔵冷凍などの保存技術がなかった時代において腐りやすいものは塩漬けにされ保存されていました。
その過程で発酵菌が付着して生まれたのが味噌の前身となる調味料だと考えられています。
【味噌の歴史】古代中国から令和時代まで
続いて、味噌の歴史について古代中国から令和時代までをお伝えしていきたいと思います。
【古代中国】孔子もこだわった味噌の前進「醤」
起源のところで古代中国のお話はしましたが、実はもう一つ興味深いエピソードがあります。
味園の起源である「醤」は孔子の言葉をまとめた論語の中にも登場します。
孔子は腐った食べ物や色合いや煮方の悪い食べ物、季節外れの食べ物は口にしないと語った後に、「不得其醤不食」と言い、醤がなければ食べないと言っています。
古代中国では食は「儀礼」と密接に関わっていました。
実は食べ物によって使われる醤が決まっており、孔子はその取り決めを尊重して「不得其醤不食」と語りました。
古代中国の「醤」と「豉」の作り方
古代中国の農業技術書である「齊民要術」には、大豆を原料とした「醤」と「豉」の作り方についての記載があります。
漢字にもあるように「醤」は「酉(とり)」と書いてあり、かつては動物性の原料によって作られるのがメインでした。
その後、大豆が入ってきたこともあり、豆類や雑穀によって作られる「豉」も作られるようになりました。
しかし「醤」と「豉」は大豆を原料にしているにも関わらず作り方がかなり異なります。
時期に関して「醤」は1月〜3月、「豉」は4月〜8月で「豉」は冬の寒すぎるときや夏の暑すぎる時はうまくできないとしています。
容器も「醤」は甕を使って作りますが、「豉」は小屋で作ります。
「醤」は甕の中で煮て、甕の中で熟成させます。
対して「豉」は大釜でゆっくりとかき混ぜながら煮て、柔らかくなったら止め、小屋の土間に広げてかきならします。
豆を山型に積んで、その中に手を差し込み、人の脇の下程度の温かさになったら、内側の温かい豆と外側の冷えた豆を鋤(すき)を使ってひっくり返す作業を4〜5日ほど繰り返し温度を安定させて作ります。
【奈良時代】万葉集にも詠まれ、税金としても収められていた
味噌の前身である「醤」は万葉集の中にも出てきます。
「醤酢に 蒜(ひる)つきかてて 鯛願う 吾に見せそ 水葱(なぎ)の羹(あつもの)」
意味は「ノビルを薬味にした醤酢を付けて体を食べたいと思っておたのに、ミズアオイの汁なんて見せてくれるなよ」です。
そのほかにも芸として擬人化された「乞食者の詠」にも詠まれていることから、「醤」は宮廷などの限られた場所での食品ではなく、広く社会全体に普及していたことがうかがえます。
租税として収められていた「醤」・「未醤」
中国より伝来してきた醤の中に味噌の前身といわれ「未醤」というものがありました。
これらの醤や未醤は、奈良時代には租税として収められていました。
奈良東大寺の正倉院の古文書によると、初めて醤や未醤が出てくるのは730年の尾張国正税張で、そのほかにも駿河国や長門国。
但馬国、豊後国などからも醤や未醤が租税として収められていたという記述があります。
しかし当時出てくるのは「醤」や「未醤」であり、「味噌」ではありません。
奈良時代は、「醤」や「未醤」が日本独自の「味噌」になる発展段階だったので食材としてまだ独立していなかったと考えられています。
「味噌」として登場するのは平安時代です。
同じ「ひしお」と読む「比之保」と「醤」
「醤」が中国から伝来する前の500年ごろに「比之保」と呼ばれる醤油の原型が日本で作られていました。 .
奈良時代に入って文字の普及が進むと、「比之保」と「醤」の風味の点で共通する部分が多かったからことから両方とも「ひしお」と呼ばれるようになりました。
【平安時代】贈答品としても重宝された
味噌が醤や未醤から独立して表されるようになったのは、平安時代で「日本三代実録」の中に出てきます。
奈良の平城京から京都の平安京に京都が移り、平安京の市場では味噌専門店があったことが「延喜式」という文献に書かれています。
また延喜式には味噌が役人の給与にも使われたり、贈答品にもされたことが書かれています。
贈答品として見ると、河内国の特産品としても味噌は出てきており、人々の食生活に必要不可欠な食材であったことが想像できます。
【鎌倉時代】特権階級が味噌汁を飲むようになる
中国の「醤」は基本的に料理につけて食べる調味料として使われていましたが、鎌倉時代の日本では味噌そのものを食べることを目的に味噌汁が現れました。
味噌汁は鎌倉時代に始まり、室町時代に本格化したと考えられています。
鎌倉武士が生み出した「汁かけ飯」
源頼朝は武士たちに質素倹約を命じておりましたが、武士としていざとなったときに戦うことができるように栄養素が高くて美味しいものを食すことを目指しました。
味が良く、栄養がある食べ物として味噌が注目されるようになり、武士の食膳には必ず味噌汁がつくようになりました。
はじめのうちはご飯+味噌というスタイルでしたが、忙しい中での時間節約から「汁かけ飯」のスタイルがだんだんと一般的になります。
【室町時代】庶民に浸透し味噌文化の基礎が固まる
室町時代になると味噌は急速に日本社会の中に浸透していきます。
その理由は以下の二つです。
- 大豆の量産化の成功
- ヴィーガンのお坊さんの栄養食としての味噌が民衆にも売られた
①大豆の量産化の成功
大豆は縄文時代には日本に伝わっていましたが、なかなか量産化に成功していませんでした。
しかし室町時代になると、大豆の量産化に成功し、一般農民の間でも味噌作りが普及するようになります。
農民たちは自家用の味噌以外を市場で売るようになり、流通量が増加したことによって日本社会の隅々にまで味噌が行き渡るようになりました。
②ヴィーガンのお坊さんの栄養食としての味噌が民衆にも売られた
鎌倉時代に生まれた浄土宗や日蓮宗、禅宗などの新仏教は室町時代にも勢力を拡大していきます。
当時の仏僧は肉や魚などの動物性食品を食べないヴィーガンでした。
しかし彼らには厳しい修行に耐えうる体力と精神力が求められ、そんな環境で重宝されたのが栄養素が豊富な味噌でした。
鎌倉新仏教は民衆救済は目的の仏教であったため、大衆との結びつきも強く、味噌が浸透するきっかけになっていきました。
また仏教寺院でも維持費を稼ぐため、醸造した味噌を販売した経緯もあり、浸透の加速度を上げました。
【戦国時代】戦の必需品になる
織田信長や豊臣秀吉が現れる戦国時代になると味噌は戦の必需品となりました。
味噌が武士たちに好まれた理由は、合戦や訓練により激しく「塩分」や「エネルギー」を消耗するのを味噌が補うからです。
戦国武将たちは味噌をお米とともに、重要な軍事物資と位置付けました。
味噌工場を拵(こしら)えた伊達政宗
戦国武将たちも戦うにあたり味噌を調達に工夫を凝らしました。
武田信玄は軍勢を進める際に街道筋の農民に大豆の増産と味噌作りを発令し、できた味噌を買い取りました。
豊臣秀吉は米・味噌・塩を農民から買い取って軍勢を進めています。
さらに仙台の伊達政宗は城下に「御塩噌蔵」なる味噌工場兼倉庫を作り、兵量用味噌を作りました。
伊達政宗が作っていた味噌は非常に優れており、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際も伊達家の味噌はずっと日持ちしたと、一躍有名になりました。
武田信玄が発明した味噌を作りつつ行軍する「陣立味噌」
武田信玄は「陣立味噌」という味噌を作りながら行軍する戦陣食を発明しました。
陣立味噌は出陣前にに大豆をすり鉢ですり、塩と麹を加えて丸めて紙に包み、出発します。
移動が徒歩や馬であったこの時代は行軍も長い時間がかかり、戦場についた頃には味噌が出来上がっています。
兵士たちはこの味噌を使って味噌汁を作りました。
戦国大名の中で最も味噌を好んだ徳川家康
徳川家康は食に対してとっても気にかける人で、味噌も好んで食べていました。 .
家康が最も好んだのは地元の三河国で作られる三河味噌であり、八丁味噌と並んで大豆を主原料とする豆味噌です。 .
家康は豊臣秀吉の名で東海地方から関東に国替を命じられますが、江戸城に行った後も三河味噌を食べていました。
【江戸時代】大都市では自家消費用ではなく販売用味噌が流通するようになる
江戸時代、基本的に味噌は自家消費する「手前味噌」が一般的でしたが、江戸や大阪といった大都市では人口の増加に伴い、販売用の味噌が流通するようになりました。
日本一の味噌消費地域であった江戸では、江戸の中で作った味噌以外に北関東や房総地域から運ばれてきました。
また廻船によって運ばれた諸国の味噌も江戸の人の舌を魅了しました。
味噌の販売に関わっていたのは味噌問屋です。
江戸時代は問屋仲介制度によって問屋で扱われる商品が厳格に決められており、味噌もその一つでした。
そのため味噌問屋は産地に問わず江戸での味噌販売を一手に引き受けていました。
味噌問屋の数は1700年代で300件以上もあったと記録されています。
【明治・大正時代】和洋折衷でも欠かせない
大政奉還の後、日本は明治時代を迎え、一気に西洋化していきます。
食文化でみても大都市では洋食屋が開業され、オムレツやカレーライス、コロッケなどが出回り始めます。
とはいえ、まだまだ洋食を食べる頻度は少なく、基本的には和食を食べていました。
和食で欠かせないのがやはり味噌です。
味噌は和洋折衷の食事が一般的になっても日本人にとって欠かせない食材であり続けました。
農村では必要なタンパク質の大部分を自家製の手前味噌で作った味噌料理や味噌汁からとっておりました。
また都市部でも栄養価の高い味噌はひつ食材であり、毎日のように購入されていました。
【昭和時代】陸海軍ともに味噌汁レシピを教科書に定める
明治時代に入り、富国強兵の中で欧米列強に並ぶために日本も戦争を始めます。
「腹が減っては戦ができぬ」と言われているように軍隊の中でも栄養価の高い味噌は重宝されていました。
陸海軍ともに独自の教科書を策定し、味噌汁を作っていました。
陸軍の興味深い話があり、陸軍は味噌汁の作り方にもこだわりを持っていました。
すり味噌よりも粉味噌をすりつぶして用いる方が風味はよろしい。
味噌汁は出来立てを食することが大切だ。
そのためには鍋の水量と味噌量を予めよく計算し、恋薄いの調整を避けるようにするのがよい。
濃いめに作って後から湯を加えるのは構わないが、薄めに仕立てて後から味噌を追加投入するのはよろしくない。
味噌汁は温かくいただくのが最もよい食べ方であるから、60度以上で供するように注意をしたい。
【平成・令和時代】日本の味噌は“MISO”として世界に広がっていく
戦後、学校給食によって育った世代は洋風の食事を好む傾向が強くなり、名阪中心の在来の日本食から、パンと肉類を取り入れた洋風色へと嗜好が移りました。
それに伴い、米の消費量が減少し、同時に味噌の消費量も減少していきました。
しかし近年、和食がユネスコ世界無形文化財遺産に指定され、栄養学の面でも和食が人の体に優しい健康的な食事であることがわかってきました。
高血圧や糖尿病などの生活習慣病が問題視される今、もう一度和食が見直され始めています。
また海外への輸出も伸びており、これらの流れは今後一層加速していくでしょう。
私たち日本の味噌は、今後世界で受け入れられ“MISO”として世界に広がっていくと信じています。
おわりに
いかがだったでしょうか?
今回は味噌の歴史について、起源からさかのぼってお伝えしていいました。
味噌の歴史については人にも説明できるようになったのではないでしょうか?
味噌はどの時代にも人々の生活に重要な役割を果たしてきたことがわかりました。
最近では科学の発展によって味噌の栄養素が可視化できるようになり、重要性が見直されておりますが昔の人々は直感的にその重要性を理解していたとも考えられます。
また味噌が現代まで残ってきたのは健康であるからだけではなく、保存性が高く、おいしいからです。
さらに味噌の奥深さを知るために、一度自分で味噌を作る「手前味噌」も体験してみるのもいいですね。